歴史認識2

吉川利治著の「近現代史のなかの日本と東南アジア」(東京書籍、1992年)という本に、東南アジアの国や地域ごとに、戦前と戦後の日本との関係がまとめられていました。

日本軍の行動パターンは、3年間ほどの短期のうちに、虐殺、物資の収奪、強制労働などにより現地の人々の信頼を失い、経済の混乱を引き起こして敗戦を迎え、戦後は日本企業のひも付き補償を行うというものでした。

フィリピンではバターンの死の行進の他に、特に戦争末期に万単位の集団虐殺があったそうです。また、戦後の日本の補償は、日本企業のひも付きで、マルコス大統領を含む、汚職の温床になったといわれています。

インドネシアでは、後に大統領となったスカルノを先導役に進軍してオランダを追い出しましたが、インドネシアを植民地支配から解放するというよりも、主にジャワ島から30万人以上の人々を軍需工場や国外の鉄道建設現場に連れ出して労働を強いるなど、日本の植民地として支配しました。労務者の7万人が国に帰れずに死亡したといわれており、インドネシアに、ロームシャという言葉を残しました。

ベトナムではフランスと二重になって搾取を行い、1943~1945年のベトナム北部の大飢饉の際には、日本軍の物資収奪のために、200万人ともいわれる餓死者が出たといわれています。当初は、フランスの支配からの解放者として日本を歓迎していたベトナムの民族主義者たちですが、日本への反発から、終戦直前にはホーチーミンを中心にベトミン蜂起を起こしました。

タイは日本とは名目上の同盟国でしたが、日本軍の存在のために米軍の空襲を受け、また、タイ・ビルマ間の鉄道建設に国民を連れ出されるなどの不利益を被りました。日本が降伏した翌日に、タイは英米への宣戦布告を無効にする宣言をしました。

マレーシアとシンガポールでは、日本の中国侵攻に反発する華僑を、万単位で殺害する「大検証」がありました。また、バナナ紙幣と呼ばれる、結果的に無価値となった紙幣を日本軍が大量に発行し、地元の経済を混乱させました。

ビルマでは、重慶にたてこもった蒋介石への補給ルートを遮断するために、タイ・ビルマ間の鉄道建設にビルマ人を動員し、8万人以上が死亡したといわれています。また、軍票の乱発等によるインフレのため、物価は数年間で300倍にはねあがりました。日本軍は、アウン・サン・スーチーの父親であるアウン・サン等の民族主義者を軍事訓練し、進軍の先導役にしましたが、事前に約束していたビルマの解放を果たさず、結局、アウン・サンが前宗主国のイギリスと手を組み、反日闘争を展開しました。

他にもラオス、カンボジア、ブルネイに、日本の軍政が敷かれたそうですが、情報は整理されていないそうです。

日本は戦後に、東南アジアの各国と賠償協定を結びました。しかし、賠償金額は、アジア諸国が求めた水準を大幅に下回り(当時の日本に経済力が不足していたため)、また、インフラ整備などの形での贈与は、日本政府が日本企業に発注したため、結局は、利潤が日本に還元される形になっていたそうです。
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by sunaogoto | 2006-07-26 01:12