tankobu
2006-08-05T00:50:08+09:00
sunaogoto
tankobu
Excite Blog
スポーツを守る
http://tankobu.exblog.jp/3934738/
2006-08-05T00:50:08+09:00
2006-08-05T00:50:08+09:00
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sunaogoto
未分類
亀田選手の世界タイトル戦は、判定の結果について専門家や観客の意見が分かれ、数万人の抗議の電話やメールが、テレビ局や新聞社に寄せられたと聞きました。
元世界チャンピオンの専門家が、冷静に見れば、亀田の判定勝ちは間違いないと、ウェブで書いていました。亀田が効果的なパンチを多く当てており、それはプロのジャッジでないと正しく判定できないものだというのです。
正論に聞こえますが、プロスポーツに必須のはずの、観客をないがしろにした意見だと思いました。お客あってのプロなのだから、お客に納得してもらえる工夫をしないと、お客が減って試合が成り立たなくなったり、もともと少ないアマの競技人口がますます減ったりして、日本のボクシング全体にとって良くないことになると思います。
昨年のサッカー欧州チャンピオンズリーグで、判定に不満な観客が発炎筒を試合場に投げ入れ続け、試合が中途終了になったことがありました。そのとき、解説者が、「これはいけない。スポーツはみんなで守らなければいけないものなのに。」と憂えていたことを思い出しました。
今回のボクシングの試合結果について、観客の当惑を「素人にはわからん」で片付ける専門家や、ウェブで感情的な意見を垂れ流す素人や、議論をあおるだけの新聞やテレビは、どれもボクシングをスポーツとして守ろうとしていません。
80年代に、3階級制覇者同士(レナード対ハーンズ)という、大試合がありました。しかもこの試合が第3戦で、前の2回はいずれもレナードが逆転KO勝ちするという因縁つき。3回目の結果は白熱のドロー判定で、観客の意見は大いに割れましたが、試合をした2人が、後日のテレビ番組で、全部のラウンドを試合のビデオとともに解説してくれたことが印象的でした。
観客の注目度だけでいえば、この試合に負けないくらい、亀田の試合も大試合だったのですから、レナードやハーンズと同じように、観客が納得できるような工夫を、亀田に進んでしてもらいたいです。
亀田が勝つことだけを考え、自分が目立つ行動しかとれないようであれば、彼はスターでもカリスマでもありません。今のままでは、私はおおみそかに、ボクシングではなくプライドを観ていることでしょう。(ボクシングは後で録画を観るでしょうが)]]>
かちかち山
http://tankobu.exblog.jp/3922842/
2006-08-02T23:46:42+09:00
2006-08-02T23:46:42+09:00
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sunaogoto
未分類
私が読んだ絵本のあらすじは、畑を荒らしてじいさんに捕まったたぬきが、許してくれたばあさんの情けを逆手にとってばあさんを殺害したため、うさぎが仇討ちに立ち上がり、柴をかついだたぬきの背に巧妙に火をつけ、焼けた背中に薬と偽ってからしをすりこみ、泥の舟ごと海の沖に沈めてしまいます。
違和感その1。ばあさんを殺したのは本当にたぬきか。
じいさんは殺害の場面を見ていません。見たのは、死んでいるばあさんと、たぬきが逃げ出した跡だけです。それなのに、たぬきが殺したというじいさんの主張を、なぜうさぎは信じるのでしょうか。
違和感その2。うさぎが仇討ちする動機は何か。
なぜじいさんは、たぬきを捕まえるだけの力があるのに、自分で立ち上がらず、うさぎに任せるのでしょうか。うさぎはじいさんに恩があったのでしょうか。あるいは、たぬきを恨んでいたのでしょうか。あるいは、たぬきをやっつけることで、得になることがあったのでしょうか。あるいは、じいさんにたぬきを退治させたくない理由があったのでしょうか。
違和感その3。悪徳たぬきがうさぎの前ではお人よしなのはなぜか。
たぬきは、背中に火をつけられても犯人がうさぎだと疑いもしません。うさぎにからしを火傷した背中にすりこまれても、「うさぎくんのおかげで治ったよ」(タフなたぬきです)と感謝します。その上、泥の舟の危険性を疑いもせずに海に出てしまいます。
ばあさんの情けにつけこんで、ばあさんを殺してしまうほど、残酷でずるがしこいたぬきであれば、うさぎの陰謀に気がつくか、少なくともうさぎが怪しいと警戒しそうなものです。うさぎの仇討ちが始まる場面から話を読むと、残酷でずるがしこいのは、たぬきではなく、むしろうさぎです。
うさぎを真の悪者だと仮定すると、次のように新説が考えられます。
新説その1:うさぎ真犯人説。
ばあさんを殺したのは、実はうさぎでした。その罪をたぬきになすりつけて、しかもたぬきをだまし殺してしまうのです。そこまでやるうさぎですから、仇討ちをたてにとって、じいさんにたかるくらいのことをするのでしょう。
新説その2:うさぎとたぬきの共謀説。
ばあさんを殺したのはたぬきでした。後難を恐れたたぬきはうさぎと共謀し、うさぎが犯人とは別のたぬきをやっつけ、ばあさんの仇を討ったことにしたのです。えん罪のたぬきはうさぎを疑うべくもなく、理由のわからないままに海に沈んだのです。
2つの新説の組み合わせとして、真犯人はうさぎで、自分の罪をかくすために、お人よしのたぬきを選んで、罪をなすりつけて殺したと考えても、つじつまが合います。
新説かちかち山の教訓は、「立場の強い者(人間)に、立場の弱い者(たぬき、動物)が危害を加えてしまった場合、たとえ不可抗力だったとしても、たとえ目撃者がいなくても、たとええん罪だったとしても、加害者はどのようなひどい報復を受けても不思議ではない。」
私が感じた違和感をおりまぜながら絵本を読むと、3歳になる友人の娘はきょとんとしていましたが、周囲の大人たちはたくさん笑ってくれました。]]>
歴史認識3
http://tankobu.exblog.jp/3882685/
2006-07-26T22:57:34+09:00
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sunaogoto
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私が読んだ、「日本と東南アジア」の前書きには、「・・・通常の国際関係論ではすまされない、究明に道義心と義務感を抱く分野であることを知った。・・・本書で述べられた内容が、少なくとも東南アジアに赴く日本人にとっては常識となることを、われわれ執筆者は願っている。」とありました。
日本軍政下のフィリピンのことを、スリランカに行く前に知っていたとしても、アントンとの話題にしたかどうかはわかりません。でも、歴史を知らずにアントンと1週間過ごしたことを、今では残念に思います。
近現代史を学ぶことの意味が、少しわかったような気がします。]]>
歴史認識2
http://tankobu.exblog.jp/3878071/
2006-07-26T01:12:19+09:00
2006-07-26T01:12:19+09:00
2006-07-26T01:12:19+09:00
sunaogoto
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日本軍の行動パターンは、3年間ほどの短期のうちに、虐殺、物資の収奪、強制労働などにより現地の人々の信頼を失い、経済の混乱を引き起こして敗戦を迎え、戦後は日本企業のひも付き補償を行うというものでした。
フィリピンではバターンの死の行進の他に、特に戦争末期に万単位の集団虐殺があったそうです。また、戦後の日本の補償は、日本企業のひも付きで、マルコス大統領を含む、汚職の温床になったといわれています。
インドネシアでは、後に大統領となったスカルノを先導役に進軍してオランダを追い出しましたが、インドネシアを植民地支配から解放するというよりも、主にジャワ島から30万人以上の人々を軍需工場や国外の鉄道建設現場に連れ出して労働を強いるなど、日本の植民地として支配しました。労務者の7万人が国に帰れずに死亡したといわれており、インドネシアに、ロームシャという言葉を残しました。
ベトナムではフランスと二重になって搾取を行い、1943~1945年のベトナム北部の大飢饉の際には、日本軍の物資収奪のために、200万人ともいわれる餓死者が出たといわれています。当初は、フランスの支配からの解放者として日本を歓迎していたベトナムの民族主義者たちですが、日本への反発から、終戦直前にはホーチーミンを中心にベトミン蜂起を起こしました。
タイは日本とは名目上の同盟国でしたが、日本軍の存在のために米軍の空襲を受け、また、タイ・ビルマ間の鉄道建設に国民を連れ出されるなどの不利益を被りました。日本が降伏した翌日に、タイは英米への宣戦布告を無効にする宣言をしました。
マレーシアとシンガポールでは、日本の中国侵攻に反発する華僑を、万単位で殺害する「大検証」がありました。また、バナナ紙幣と呼ばれる、結果的に無価値となった紙幣を日本軍が大量に発行し、地元の経済を混乱させました。
ビルマでは、重慶にたてこもった蒋介石への補給ルートを遮断するために、タイ・ビルマ間の鉄道建設にビルマ人を動員し、8万人以上が死亡したといわれています。また、軍票の乱発等によるインフレのため、物価は数年間で300倍にはねあがりました。日本軍は、アウン・サン・スーチーの父親であるアウン・サン等の民族主義者を軍事訓練し、進軍の先導役にしましたが、事前に約束していたビルマの解放を果たさず、結局、アウン・サンが前宗主国のイギリスと手を組み、反日闘争を展開しました。
他にもラオス、カンボジア、ブルネイに、日本の軍政が敷かれたそうですが、情報は整理されていないそうです。
日本は戦後に、東南アジアの各国と賠償協定を結びました。しかし、賠償金額は、アジア諸国が求めた水準を大幅に下回り(当時の日本に経済力が不足していたため)、また、インフラ整備などの形での贈与は、日本政府が日本企業に発注したため、結局は、利潤が日本に還元される形になっていたそうです。]]>
歴史認識
http://tankobu.exblog.jp/2957193/
2006-03-11T00:23:04+09:00
2006-03-11T00:23:04+09:00
2006-03-11T00:23:04+09:00
sunaogoto
未分類
日本が具体的にアジアのどの国で何をしたのか、私は知りませんでした。きっかけがあって、知りたくなったので、少し調べてみました。
少し調べただけで、日本がすべてのアジア諸国に兵を進め、悪い評判を残したことがわかりました。中でも、三大汚点と呼ばれているのが、南京大虐殺、フィリピンでの「バターン死の行進」、そしてシンガポールでの「大検証」です。
南京大虐殺は、上海を攻略した日本軍が、蒋介石の敗走兵を追って南京に迫り、市民や投降した兵員を、大量に殺害した事件です。中国の一般常識では、30万人が殺害され、ガソリンで焼かれたり、川に投げ込まれたりしました。
「バターンの死の行進」とは、太平洋戦争開戦直後、フィリピンの米軍を制圧した日本軍が、10万人以上の捕虜と民間人を、合計70キロ以上、拘留地まで行進させた事件です。行進の最中に数千人、そして拘留地に到着した後は毎日数百人が、病気や栄養不足のために死亡したそうです。
「大検証」とは、イギリス支配下のシンガポールを占領した日本軍が、中国系の住民を大量に殺害した事件です。当時、日本は中国と戦争をしていたため、シンガポールに多く住む中国系住民を集めて、「敵性」であるかどうか「検証」したそうです。殺された「敵性」住民は、シンガポールだけで5万人ともいわれ、他の地域でも同じような殺人があったと考えられています。
気になったので、もっと調べることにしました。]]>
包み方の極意
http://tankobu.exblog.jp/2866291/
2006-02-27T23:01:45+09:00
2006-02-27T23:01:45+09:00
2006-02-27T23:01:45+09:00
sunaogoto
未分類
焼きまんじゅうとは、大き目のショウロンポウのようなもので、フライパンで蒸し焼きにしてつくります。上海に行ったときに、食べたことがあります。キューピー3分間クッキングのホームページで作り方を見つけたので、自分でも挑戦してみたのです。
焼きまんじゅうづくりで、私がもっとも苦戦するのは、具の包む方です。左の手のひらに皮を乗せ、その上に具を乗せ、右手の親指と人差し指で、ひだを少しずつまとめるように包んでいくのです。
しかし、うまく皮が閉じません。これだと、焼いたときに肉汁が流れ出てしまって、おいしくありません。見栄えもまんじゅうらしくなく、おいしく見えません。
試行錯誤していたら、ふとしたきっかけで、開眼しました。中華まんの出来上がりの形が、らせんであることに気がついたからです。つまり、閉じたカーテンのように、ひだを水平に寄せるのではなく、少しずつひだの重ね方を上へとずらし、らせんつくるようにひだをまとめればよいのです。
間違ったやり方のときは、右手の親指と人差し指の腹を合わせるようにして、ひだをまとめていました。これでは、水平カーテンのひだしかできません。
正しくできたときは、右手の親指の横、あるいは爪の内側あたりに、人差し指の腹がひだをまとめてきていました。これだと人差し指の腹が、親指にそって斜めに、引っ張り上げるようにひだをまとめてくるため、自然にらせんができます。
すばらしいらせんだと感心し、フライパンで蒸し焼きにすると、まんじゅうの底がフライパンにがっちりと貼りついていました。うれしさのあまり、焼く前に油を敷くことを忘れたせいです(油がなくともなんとかなると思ってしまったのですね)。どうにもうまくはがせず、諦めて底抜けのまんじゅうをいただきました。
次こそは形も焼きも文句なしのまんじゅうを食べます。]]>
スリランカ行8
http://tankobu.exblog.jp/2685384/
2006-02-06T21:59:14+09:00
2006-02-06T21:59:14+09:00
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sunaogoto
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アントンとヒッカドゥアで別れて、コロンボへ向かうために電車の駅に向かいました。
コロンボ行きの電車が、予定の1時間遅れで到着するのを待つ間、サリームという中年男性と出会いました。サリームはドイツ人観光客相手のツアーコンダクターでしたが、1年前の津波の際に痛めた右ひざが治らず、今は松葉杖をついて、駅に到着する観光客の客引きをしています。収入は、紹介先のホテルから受け取る、宿泊料の10%。金額にすると、1人の紹介客あたり、150~200円です。ドイツ語や英語などの外国語が堪能なのに、仕事がないのです。娘が3人(18歳、16歳、14歳)と息子1人(8歳)を育てるのは、大変だと言っていました。治療がずさんだったせいか、サリームの右ひざは、左ひざの2、3倍程度に膨れ上がったままでした。
津波の被害の残る沿岸部を約3時間かけて、電車がコロンボに到着する頃は、夕立が激しく降っていました。私は駅で、スリーウィーラーをつかまえ、ヒルトンホテルに入りました。コロンボにいる友人のすすめで、予約しておいたのです。
スリーウィーラーはヒルトンにふさわしくないらしく、ホテルの正面玄関に立つドアマンは、ドアを開けてさえくれません。が、レセプションで名前を告げると、手の平を返したように扱いがていねいになりました。他の部屋に空きがなく、エグゼクティブフロアを予約してあったせいでしょう。
ホテル、そして部屋の中は、つい5分前まで見ていたスリランカとは別世界でした。蚊帳のない部屋、ダニのいないベッド、割れていない窓ガラス。テレビを付けると、CNNが遠い世界のニュースを流しています。ここが東京やニューヨークやロンドンだと言われても、まったく違和感がありません。
翌日、コロンボ在住の友人が、車で迎えにきてくれました。今夜の成田行きのフライトまで、買い物や食事につきあうために、仕事を休んでくれたのです。ベアフットという高級おみやげ店兼カフェ、オデルというスリランカ随一の高級ショッピングモール、そしてギャラリーカフェという有名建築家がデザインしたレストラン。特にオデルは、値段が日本の7割程度と、スリランカでは相当に高い店のはずですが、思ったよりも多くのスリランカ人が訪れていることが印象的でした。友人いわく、「うちのドライバーなんかは、中に入れてもらえないよ」。
コロンボの目抜き通りは、平日は車で大渋滞します。統計上は、高価な乗用車が道にあふれるほどの購買力はない、スリランカ人の富裕層は、相当な脱税をしている可能性が高い、と友人が車の中で話してくれました。この国の一部は、私が想像する以上にお金もちで、彼ら以外のスリランカ人との所得格差は、開く一方のように思えました。
私が各地を旅行している間に、友人宅では男の赤ちゃんが誕生していました。この暑い国で、たくましく育ってほしいものです。お姉ちゃんになった友人の長女に、「また遊びにきてください」と見送られて、帰国便に乗るために、夜の空港に向かいました。帰りの飛行機の中でも、私は何杯も何杯も、セイロン紅茶を飲みました。
おわり]]>
スリランカ行7
http://tankobu.exblog.jp/2560734/
2006-01-23T22:10:48+09:00
2006-01-23T22:10:48+09:00
2006-01-23T22:10:48+09:00
sunaogoto
未分類
日曜日は、海岸沿いにヒッカドゥアというビーチに向かいました。
ドライバーのアトラの酔いはもちろん醒めていて、「うちに泊まれ」の一言も口にしません。その代わりなのでしょうか、ウェリガマという町にある、彼の奥さんの実家に立ち寄りました。こじんまりとした家ですが、奥さんや5歳になる娘、それに近所の子供たちも集まって、賑やかに歓待してくれました。きっとこの家の一番の食器なのでしょう、きれいなティーカップで濃い、おいしいコーヒーをいれてくれました。
アトラは10年近く、観光客相手のドライバーをしているそうです。コロンボ近郷に自宅があるそうですが、この日はウェリガマを通ることがわかっていたため、奥さんと娘を呼び寄せていたそうです。いつも車で走り回っている夫、父と会うために、妻と娘は、年に何度も、コロンボとウェリガマを往復しているのでしょう。
目的地のヒッカドゥアを含めて、この日、通った地域は、スリランカの南西海岸部分です。1年前の津波は、スリランカの北東部を直撃した後、余波がぐるりと島の南端を回って、北西部をのぞく、ほぼすべての沿岸部に被害を与えたそうです。南西海岸では、あちらこちらに打ち捨てられた漁船や、壊れたままのホテルやレストランを見かけました。
ヒッカドゥアは、津波前までは、スリランカで一番人気のあるビーチリゾートだったそうです。しかし、夜にアントンと目抜き通りを歩くと、再開していないホテルや、お客がいなくて開店休業のレストランが多くありました。アントンと夕食をとったレストランでは、食材を仕入れていないのか、食べられるものが、サンドイッチとフルーツサラダくらいしかありませんでした。(別の賑わっているレストランには、何でもありましたが)。
月曜日は、アントンと近くの湖をぶらついたり、ビーチでのんびりしたりしました。舟を雇って、スノーケリングをすると、熱帯魚がたくさん泳いでおり、海はたいへんきれいですが、サンゴ礁は全滅していました。津波の前までは、一面のサンゴがさぞかしきれいだったことでしょう。
夕方、インド洋に沈む夕日を見物しようと、ベランダに座っていましたが、残念ながら入道雲が湧いてしまって、夕立になってしまいました。雨はやみましたが、雲が晴れないまま日が暮れ、薄暗くなって、海と空の境がどこにあるのかわからなくなる頃、水平線にずらりと漁船の灯りが並びます。遠くの空には、ときおり稲光が見えました。
2階の部屋は、海から10メートルほどしか離れておらず、蚊の侵入を防ぐために窓をしめきっていても、寝床から波の音がよく聞こえました。
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スリランカ行6
http://tankobu.exblog.jp/2505015/
2006-01-17T23:01:30+09:00
2006-01-17T23:01:31+09:00
2006-01-17T23:01:31+09:00
sunaogoto
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この日は、アトラの運転が、もっとも価値を発揮しました。ヌワラエリヤの山間部を抜けて、スリランカ南端部にある、ヤーラというサファリに到達しました。私がバスや電車を使ってヤーラに行こうとしていたら、コロンボまで戻って、そこから海岸沿いにスリランカの4分の1近くを移動しなければならず、とても時間がなかったはずです。
サファリは、アントンにとって、スリランカ旅行の目玉でした。野生動物の好きなアントンは、ネパールやインドでもサファリをまわりましたが、あまり動物は見られなかったそうです。「ここにはヒョウがいるらしいよ。ヒョウが!」、「へえ、サファリって初めてだな」、「それでヒョウが見られたら、君は世界で一番ラッキーだよ」。
アトラが手配しておいてくれたジープ(運転手はアトラとは別の人)に乗って、サファリ内に入ると、そこは野生動物の王国でした。サル、野鳥、水牛、マングース、クジャク、シカ、ゾウ。特に広く開けた水飲み場では、水牛とシカたちが集まる沼に、遠くからゾウの群れがゆっくりと近づき、その前をクジャクのつがいが横切ります。
と、他のジープの連絡を聞いて、ドライバーが砂ぼこりを巻いておんぼろジープを飛ばします。着いた先には、ジープが5台ほどとまっており、みんな車から顔を突き出して(車から降りてはいけない)、一点を見つめています。日没間近の岩場のてっぺんに、待望のヒョウのシルエットが見えました。親子らしく、2つの頭が見えます。ときどきしっぽがひょっこり持ち上がったり、親ヒョウが立ち上がって全身を見せてくれる様子を、閉園時間ぎりぎりまで、静かに見守りました。
アントンは、ヒョウが見られてごきげんでした。私もたいへん楽しめたので、ジープのドライバーにチップをたくさんあげました。ドライバーも喜んでくれて、私たちにココナッツ焼酎をふるまってくれました。その後、ドライバーはアトラと一緒に、ほとんど空になった焼酎のビンを片手に、私とアントンが食事しているテーブルに乱入して、きました。ちょっと酔っ払っています。
ジープドライバー、「日本人にずっと世話になっている、おれもおれの家族も友だちも・・・。シィコウ(Seiko時計のことらしい)はいいなぁ。それシィコウ?(シチズンです)おれシィコウがほしいなぁ(だめです)。ねえねえ、あんたたち、今日見たけど、サファリに自家用車で入っちゃいけないんだよ、ジープだけしかいけないんだよ(となりのテーブルの観光客にからまないでください)」。
アトラも一緒になって、酔っ払っていました。「明日はビーチだけど、ホテルなんかに泊まらないで、おれの家に泊まるね。きまり!せまいけどさ・・・みんなでバーベキューして酒飲んで・・・ウヒヒヒ・・・シーフード好き?ホテルなしね。明日はおれんちね」。
日中のアトラは、時間にしっかりとした、腕のよいドライバーです。ジープのドライバーは、眼光鋭く、動物の姿を見つける、サファリの仕事人でした。しかし夜は2人とも、お酒に飲まれて見る影もありません。
私たちが乗ったジープは、植民地時代のイギリス軍のお古としか思えないような、おんぼろのランドローバーでした。ジープドライバーには、お酒をひかえて貯金して、早くもっとよいジープを買って、幸せになってほしいものです。]]>
スリランカ行5
http://tankobu.exblog.jp/2439444/
2006-01-10T21:49:28+09:00
2006-01-10T21:49:29+09:00
2006-01-10T21:49:29+09:00
sunaogoto
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キャンディを出て、ヌワラエリヤという紅茶畑が広がる山岳地帯に向かいました。
ヌワラエリヤへの山道は、これまでの乾燥した強い陽ざしと一転して、霧雨に包まれています。せまいくねくねした上り坂は、閑散としていて、舗装工事の人夫の他は、ほとんど人影がありません。
山道を登りきったあたりにある、紅茶工場を見学しました。あたりは一面、紅茶畑が広がります。霧がたちこめる山奥は、紅茶を育てる環境として最適だそうです。見学した後に、無料で飲ませてもらった紅茶は、BOP(ブロークン・オレンジ・ペコー)という最高級品だそうです。美味でした。
紅茶の若葉(「ペコー」といいます)はすべて手で摘まれ、摘み手の多くは、スリランカの少数派であるタミル人、その中でもイギリス人によってインドからつれてこられた、インド・タミル人と呼ばれる人たちが多いそうです。インド・タミル人は、過去のいきさつから、今でも国籍が与えられないという問題を抱える上に、社会的地位や収入の面で、スリランカの最下層に位置するようです。
紅茶畑の中に、ぽつりぽつりと、おそらくは摘み手の人たちの住居なのでしょう、文字通りの掘っ立て小屋が見えます。コロンボや、インドのデリーの鉄道脇のスラムと同じくらい、みすぼらしい小屋でした。
紅茶工場や、道路工事の仕事につけなければ、きっと仕事などまったくないでしょう。道路脇では、新鮮そうな野菜を売るスタンドがところどころありますが、一体誰が買うのかと思うほど、人影がありません。霧が立ち込める山奥は、世界に誇るセイロン紅茶の産地としては最適ですが、野菜売りたちはたいへん寒そうでした。
スリランカで子供のこじきに会ったのは、ここだけでした。お金の意味などわかりそうにない小さな子供たちが、「ギブミー・マネー、プリーズ、プリーズ!」と駆け寄ってくるのです。大人も同様です。彼らには、観光客をカモにするだけの余裕も知恵もありません。本当の貧者とは、祈ったり、他者に頼ったりする他、生きる道のない存在だと知りました。
紅茶の山を降りて、ヌワラエリヤの町に宿をとりました。昔はイギリス人の知事のお屋敷だったらしく、派手ではありませんが、内装や調度品はしっかりしています。町を歩くと、毛糸の帽子やマフラーで厚着をした人が多く、お店には冬服が並んでいました。
宿のがらんとしたダイニングルームで、アントンが衝撃の告白をしてくれました。「いやー、(運転手の)アトラの英語って、ぼくは30%くらいしか聞き取れないんだよね」、「ええっ?だってアントンは、アトラと会話がはずんでいるじゃない」、「理解できたフリをしているだけ。ほとんどわからなくって・・・。ひとりだと間がもたなくって困ってたんだ。だからといって、今になって(いつもアントンが座っている助手席から)後ろの席に動くのも妙な気がして・・・」。
人の好いアントン、かわいそうなアントン。私は大笑いするとともに、自分の便乗が、アントンの旅に少しは貢献していることがわかって、ほっとして、ますます大笑いしてしまいました。]]>
スリランカ行4
http://tankobu.exblog.jp/2384347/
2006-01-04T21:38:38+09:00
2006-01-04T21:38:38+09:00
2006-01-04T21:38:38+09:00
sunaogoto
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この日は、ポロンナルワを出て、シーギリヤとダンブッラという遺跡を見学し、キャンディという古都に向かいました。アントンの車のおかげで、アヌラーダプラを出てから、たったの2日間で、文化三角地帯を見終えることができました。
シーギリヤは、ねたみぶかい臣下にそそのかされて、父親である王を殺した古代アヌラーダブラの王子が、弟の復讐をおそれてたてこもった岩山の要塞です。高さ200メートルの、まるで隕石のような岩山は堅固そのものですが、要塞の一部は妖精をえがいた壁画でおおわれ(今はほとんど残っていませんが)、岩山の前には、水でおおわれた豪華な庭園があるなど、要塞とは対照的な美的感覚が印象的でした。また、岩山の頂上にある宮殿まで、200メートル下を流れる川から水を汲み上げる技術力もあったそうです。
シーギリヤの王子は、結局、弟に殺されました。愚か者の王子のくせに、たいしたセンスと技術力です。
続いて、ダンブッラは岩山の地形を利用した、岩窟の仏院でした。ひんやりとした、それぞれの仏院の中には、いくつものブッダがならび、天井の岩壁は、ブッダや仏教に関する壁画でおおわれています。
スリランカでは、ブッダの像や絵をバックにした、人物の写真をとることはタブーです。写真に写る人が、ブッダに背を向けて、記念撮影することになるからです。ダンブッラでは以前に、観光客が、背をブッダ像に向け、ブッダ像の掌に座って記念撮影をしたことが、大問題になったそうです。仏院のひとつに、際立ってぴかぴかのブッダがありました。きっとこれです。観光客に冒瀆されたブッダ像は、法力が失われたため、色を塗りなおしたそうですから。
ダンブッラからキャンディに向かう途中で、アトラはハーブ農園に車をとめました。どうやら、アントンの観光コースに入っているようです。農園主から、植えてあるハーブについて一通り説明を受け終え、おまちかねのハーブの展示販売です。私が、肌に良いとされるサンダル・ウッドのクリームを物色していると、農園主が、「これも買って、小びんで良いから。あなた必要ですよ、これ。45日間使えば、100%髪が生える。遅くないですよ」。その名もキング・ココナッツ・オイル。値切って話がまとまったところで、アントンを見ると、その手には、キング・ココナッツ・オイルの大びんが。「ぼくも抜け毛が気になるんだよね。。。」。
キャンディでは、この旅行でナンバー3のホテルに泊まりました(ナンバー2はコロンボで友人が手配してくれた高級ホテル)。部屋の設備もよいのですが、従業員の折り目正しさに、金を払ってこそ受けられる安心感を感じました。
キャンディは、イギリスに支配されるまでの、最後のスリランカ王国があった古都です。コロンボから、車や電車のアクセスが良いこともあり、他の地域に比べて、外国人観光客を多く目にしました。夕方、見物したキャンディ舞踊や、ホテルのブッフェ・レストランは、外国人でいっぱいです。
いかにも観光客向けのショーやホテルは、本来バックパッカーであるアントンにとって不本意なようでしたが、これまでの行程で、スリランカがすっかり気に入ったようです。「自然は豊かだし、人はやさしいし、すごくよいね」、「キング・ココナッツ・オイルもあるぞ」、「そうそう、あれが本当に効いたら、スリランカに永住したくなるかもね」。
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スリランカ行3
http://tankobu.exblog.jp/2324259/
2005-12-28T22:34:19+09:00
2005-12-28T22:34:19+09:00
2005-12-28T22:34:19+09:00
sunaogoto
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朝からドライバーの運転するファミリアDXに乗って、別の遺跡のあるポロンナルワという町に向かいました。車は、昨晩、出会ったフィリピン青年の雇ったもので、ドライバーはスリランカ人のアトラ。バスで3時間はかかる道のりを、アトラは何台ものバスや車をクラクションをさかんに鳴らしながら追い越し、2時間ほどで走りぬきました。
フィリピン青年の名前はアントン、29歳。フィリピンはミンダナオ島の出身で、3ヶ月間ほど東南アジアを旅行し、しめくくりにスリランカにやってきました。10日間ほどでスリランカを回りたいために、車をチャーターしたそうです。
アントンの回る先は、ちょうど私が行きたいと思っている先でした。車に乗せてもらう代わりに、私が各地のガイド代と、サファリの入場料を負担することで、私が同行することが決まりました。
ポロンナルワは、アヌラーダプラをインド人に追われたシンハラ王朝が逃れた先で、10世紀から200年間、続いた王国を築いた場所です。ここではガイドを雇ったので(400円)、詳しい説明が聞けました。王の宮殿は、原型はレンガをしっくいで覆い、1000の部屋をもつ、7階建ての巨大建築物だったそうです。
アヌラーダプラと同様に、ここにも大きな貯水池があります。スリランカの内陸部は、コロンボに比べて湿気が低く、暑く感じます。貯水池がなければ人が暮らしていけなかったに違いありません。
ポロンナルワの宿は、ザ・ビレッジという安宿でした。少し離れたところに、まったく同じ名前のホテルがあり、こちらは高級な有名ホテルです。私たちの泊まった、ザ・ビレッジは沼のほとりにあり、水浴びにきた野生のゾウたちが、宿に乱入し、人々を追い回すことがしばしばあったそうです。しかし、今年の2月に、電流じこみの柵がつくられてからは、ゾウの被害はなくなりました。野生動物の好きなアントンは、ゾウが来なくなったと聞いて、しきりに残念がっていました。
宿の近くの沼のほとりに、大きなブッダの立像があったので、アントンとその前ですわって日暮れまで話をしました。アントンは両親、兄姉妹の6人家族で、お父さんはバスク出身のスペイン人です。お父さんが肉牛やココナッツ農園などを手広く運営し、伯父さんは証券会社、そして叔母さんはレストランを経営する、やり手ファミリーの一員です。アントン自身も、叔母さんのレストランのマネージャーとして新しいメニューの開発や、新店舗のインテリアデザインなどをしきっています。
「ミンダナオはけっこう、めちゃくちゃだよ。ぼくが花のビジネスをやっていたことがあるんだけど、ギャングと土地の所有権でもめて、家や車もろとも、花畑を焼かれちゃった。あの頃は金持ちだったな。。。インドではダブルブッキングのせいで、電車の席がとれなくて、一昼夜をトイレの横で過ごしたよ。汚かったねー。それからもっと前にトルコに旅行したときは、ぼったくりバーでやくざに銃をつきつけられたりして・・・」。発展途上国で聞く、別の発展途上国の人の話は、興味深かったです。
ブッダの立像には、地元の人たちや、通りがかりのトラックの運転手が、熱心に御参りに来ていました。
つづく]]>
スリランカ行2
http://tankobu.exblog.jp/2270700/
2005-12-23T00:42:28+09:00
2005-12-23T00:42:28+09:00
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sunaogoto
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朝ホテルで朝食をとっているとき、となりのテーブルにいたベトナム人とおしゃべりしました。彼はベトナム生まれのアメリカ育ちで、今はシンガポールに住みながら、スリランカを仕事でたびたび訪れます。彼はホームページ製作の請負業をしていて、80人ほどのスリランカ人を雇っているそうです。彼いわく、「スリランカ人は勤勉で、仕事をおぼえるために進んで残業する」。この国では、男性も女性も、識字率が90%を越えると、飛行機の中で読んだことを思い出しながら、感心しました。
コロンボ市内にある政府観光局に立ち寄り、旅行の情報を集め、近くの本屋で遺跡に関する本を入手した後に、市内バスに乗りました。
コロンボ市内には、政府のバスと、民間バスが走っています。友人によると、民間のバス会社は数が多く、互いの競争が激しいためか、バスは乱暴なまでに急いで走ります。バスはインド製のTATAという車種で、乗用車に横腹をぶつけてくることもあるそうです。まるで暴れゾウです。
バスには運転手の他に、乗務員がいます。私が乗ったバスには、若い男性の乗務員がいて、乗客の行き先を聞きながら料金を集め、バスの前後にあるドアを通じて、バスの内外を走り回りながら、「××行きだよ、乗った乗った乗ったー!」のような感じで、道を歩く人に盛んに声をかけていました。
友人は、乗降車の際にバスがきちんと止まらず、乗客は動いているバスから飛び降りたり、バスに飛び乗ったりすると言っていました。しかし、子供や老人が乗り降りするときは、乗務員が見ていて、必要に応じて運転手に合図をして、バスを静止させていました。
6円の運賃を払い、40分ほどバスに乗って、私が降りたのは、コロンボから12キロ離れた、マウント・ラヴィニヤという古いリゾートです。岬から海に向かってせり出すように白いコロニアル風のマウント・ラヴィニヤ・ホテルが建っており、インド洋を眼前に、プールがあります。海岸線沿いには、遠くにコロンボの町を望めます。入場料の400円を払って、プールで泳いだり、プールサイドで食事や読書をしたりして、のんびり過ごしました。
夕方になって、従業員の「雨が来る」という言葉をきっかけに、私はホテルを出て、鉄道の駅に向かいました。電車に乗ってまもなく、大雨が降り出しました。1年前は、この路線も津波の被害に遭い、乗客は電車ごと押し流され、湿地帯に沈んだそうです。
電車の一緒の席に座ったスリランカ人たちは、初めて会う同士なのに、膝や肩を叩き合いながら談笑します。「ここ、ここ、ここに座れよ。今日は何の買い物?DVD?どれどれ?」と勝手に、他人の買い物袋を開けています。ビニール袋の中には、むき出しの洋画DVD。明らかに海賊版です。コロンボまでの運賃は7円でした。
夜は友人宅に、食事に招かれました。友人の通いのメイドさんが、たくさんのカレーを作ってくれました。スリランカのお米は、あっさり軽い口ざわりでお腹にもたれないせいか、いくらでも食べられるような気がしました。
火曜日
朝から長距離バスに乗って、内陸のアヌラーダプラという町に向かいました。アヌラーダプラには、紀元前500年から10世紀まで続いた、スリランカ最古の王国があったそうです。ここと、ポロンナルワと、キャンディという3つの町の間の地域には、歴史的な遺跡が多く、文化三角地帯と呼ばれています。この地域を回った後に、コロンボへ戻り、そこからさらに南下して、ビーチに行こうと思っていました。
ところが、バスの移動は思っていた以上に時間がかかりました。高速道路がないため、バスは下道を延々と走るのです。また、バスの乗務員は、バスが信号や渋滞で止まるたびに、ドアを開けて、通行人に乗車を呼びかけます。長距離バスでありながら、各地域のローカルバスの役目も果たしている点には感心しますが、時間も余計にかかります。
5時間かけてアヌラーダプラに着き、宿を決めて荷物を下ろしたのが15:00。自転車を借りて、やたらと広い(5km×2km)遺跡群に向かうと、客がいなくてひもじい土産売りの他は、ほとんど誰もいません。勘にまかせて走っていたら、すっかり迷ってしまい、近所の子供たちに道を聞いたり、一緒にお茶を飲んだりしながら、あるいは野良犬に追いかけられながら、日がくれる頃に、宿にたどりつきました。
遺跡をじっくりと鑑賞はできませんでしたが、自転車を走らせながら、ダーガバと呼ばれる仏塔を多く目にしました。そのうち、私がゆっくりと見ることのできた、ジェータワナ・ラーマヤという仏塔は、原型は高さが120メートルもあったそうです。また、道に迷って、湖のほとりをしばらく走りましたが、この湖は、大昔に造られた貯水池だったと後で知りました。湖は大きく、向こう岸の仏塔が、数cmに見えるほどでした。大した文明力です。もっと観光客で賑わっても良さそうなものです。
宿のレストランで夕食をとりながら、どうやらこのままだとビーチに行く時間はない、と計画を考え直していたときに、同じ宿に泊まっていた、フィリピン人青年と知り合いました。ビール瓶を片手に、私のテーブルに着くと、彼はこう言いました。「ぼくには車がある。ドライバー付きの。どう?この先、一緒に行かない?」
つづく]]>
スリランカ行1
http://tankobu.exblog.jp/2260454/
2005-12-21T23:48:08+09:00
2005-12-21T23:48:08+09:00
2005-12-21T23:48:08+09:00
sunaogoto
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スリランカは、7年前に旅行を計画して、断念した場所です。そのときは、武装勢力による爆弾テロが頻発したため、外務省が強い渡航警告を発したのです。
2001年に停戦が合意されてからは、情勢が落ち着いており、ちょうど当地に赴任している大学時代の友人を訪ねたいと思い、スリランカ行きを決めました。
土曜日
成田からスリランカのコロンボまでは、スリランカ航空の直行便が、週に数回、出ています。エコノミークラスでも、フットレストや乗客1人ずつのスクリーンがあって快適だし、搭乗員は親切で、カレーはおいしく、私はセイロン紅茶を何杯もおかわりしました。
9時間のフライトの後、日本からマイナス3時間の時差のコロンボに夜の8時に着き、飛行機を降りると気温は30度。蒸し暑いです。モルジブへ向かう大勢の乗り換え客と別れ、出稼ぎ帰りのスリランカ人を狙った家電製品の多い免税店フロアを抜けると、空港の外には、友人が待っていてくれました。
友人が予約しておいてくれたホテルにチェックインし、プールサイドの屋外レストランで、深夜近くまでのんびりしました。
日曜日
朝早く目が覚めてしまったので、ホテルを出て、海岸沿いの公園を散歩していると、出会ったのがセバスチャン(41歳、男、クリスチャン、13歳の息子にすでに背を越された)。「(高級ホテルの)ガラダリに勤めている(←うそ)。今日は非番(←うそ)。今日は特別な仏教の日(←うそ)だから、一緒にお寺に行こう」。スリーウィーラー(屋根付き3輪バイク)に10分ほど乗って着いたのは、後でガンガラーマ寺院だと知りました。
靴を脱いで敷地に入ると、寺院の中で、白い服を着た大勢の子供たちが、大きなぴかぴかのブッダの前で、お祈りしていました。寺院の内装は、多色彩の絵や彫り物でいっぱいです。まるで、キリスト教の教会の壁画の立体版です。
セバスチャン、「あんたは仏教徒か」、「ちがう、神道だ。神道は太陽とか月とか、自然を拝むんだ(←適当)」、「そうか、ミスター・シントー(←意味がわかっていない)、こっちに宝石展があるぜ。(彼の本当の目的→)スリランカには良い宝石がいっぱいあってね・・・」、(無視して)「おお、これはすごい菩提樹だ」。
仏教の寺院ですが、敷地内の一部にはヒンズー教の神様の絵が飾られているし、全体的に、仏教とヒンズー教が一体となっているような印象を受けました。スリランカは人口の約70%が仏教徒で、約15%がヒンズー教徒だそうです。その他に、カトリックやイスラム教徒もいます。コロンボの町には、あちこちにブッダ像やモスクや教会が見えました。
ホテルに戻って朝食をとった後、友人が車で迎えに来てくれました。友人のガードマン付き高層マンションに着いて、日本からもってきたおみやげ(八つ橋、桜漬け、スッポンゼリー)を渡すと、友人も奥さんも大喜び。友人いわく、「モノの少ない国にいると、モノのありがたさや、人の好意がよくわかる。こういう環境で子供を育てられるのは幸運だ」。もうすぐ4歳になる友人の娘さんも、まもなく第2子を出産する予定の奥さんも、たいへん元気そうでした。
友人と別れて、ペターという地域にある市場で買い物をしました。買い物は、シャツ(2×150円)、ズボン(150円)、下着(3つで100円)、靴下(値段失念)、虫よけ(120円)。これで旅行の準備が整いました。
つづく]]>
自由
http://tankobu.exblog.jp/2064988/
2005-12-02T23:48:08+09:00
2005-12-02T23:48:08+09:00
2005-12-02T23:48:08+09:00
sunaogoto
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川端裕人の「リスクテイカー」という小説を読みました。若いヘッジファンドのトレーダーを主人公に、1990年代後半の、アジア通貨危機やロシア危機を描いた作品です。特に、後半は、展開が速く、躍動感があり、一気に読み進める傑作だと思いました。
この小説は、ヘッジファンドの活躍を描くだけではなく、価値の裏づけのあやふやになった、お金という存在の意義について、問いを投げかけています。主人公たちは、何百、何千億円という大金をトレーディングで稼ぎながら、お金とは一体何なのか、と絶えず自分自身に、そしてお互いに問いかけるのです。
小説の中で、主人公たちの後見人役である、ヘッジファンド業界の大物の老人が、「お金は自分たちの価値を測る基準のひとつだが、お金に測られなくなれば自由になれるのかもしれない」と言います。貧困や差別から自由になるためにお金を稼ぐ、しかしお金をいくら手に入れても、本当に自由になれるのか、答えは出ないまま小説は終わります。
私が自由をもっとも感じるのは、海外旅行をしているときです。オランダの列車の窓から、地平線いっぱいに広がる田園風景と、そこを流れる小川に浮かぶアヒルたちを見ていたときや、がらがらの電車のコンパートメントで横になって、スペインの夕日と赤土の大地を眺めたときなど、孤独ながら、体いっぱいの自由を感じました。
明日から1年ぶりの海外旅行に出ます。きっと今回も、お金では測ることのできない、自由な満足感を楽しめると期待しています。]]>
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