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花火

会社の忘年会で思い出したこと。
ちょっと早い職場の忘年会で、高層階のレストランにいたら、お店の大きな窓から、ディズニーランドの花火が見えました。花火は、遠く地平線の近くに見えて、音が聞こえないせいか、迫力があるというよりは、小さくかわいらしく感じました。

学生のときに、ディズニーランドで花火を打ち上げるバイトをしたことがあります。正確には、花火玉を運搬して、打ち上げまでの設置を行う仕事でした。点火は、職人さんがします。

打ち上がる花火を、私は、真下から見物します。遠くから見る花火は、花火が開いた後に、音が耳に届きますが、真下からだと、音と光が同時に私に届きます。もちろん、打ち上げ地点に近いため、花火は大きく見え、音は大きく聞こえます。花火の光と音に、包まれるような感覚です。

花火をもっとも美しく見るための場所は、真下ではないかもしれませんが、もっとも迫力を感じられる体験でした。

私が花火のバイトをしたのは、この1回だけです。もっとたくさんやっても良かったかもしれないとも思いますが、迫力に馴れてしまって、飽きてしまったかもしれません。

1回だけの体験だったからこそ、強い印象が残って、今でも花火を見るたびに、真下から見物したディズニーランドの花火を思い出すのだと思います。
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by sunaogoto | 2005-11-30 23:41

チーム

サッカー観戦して思ったこと。
スペインサッカーリーグのバルサとレアルの試合を、テレビ観戦しました。タレントぞろいの両チームの激突は、バルサの完勝に終わりました。

レアルは、銀河系軍団と呼ばれるほど、スーパースター満載のチームです。しかし、解説者によると、チームとしてのまとまりはバルサに及ばず、個人の能力が、チームワークを打開できないまま、90分間の試合時間が終わりました。

サッカーのようなチーム競技では、結局、チーム全体としての総合力が重要です。レアルのように、ひとりひとりが上手でも、バルサのように、チーム全体が同じ戦略を共有して、お互いの力を引き出す努力をしなければ、必ずしも勝てないことを、見せつけられた気がしました。

サラリーマンの仕事も、サッカーと同じようにチームで行うものです。しかし、私自身の日頃の考え方をふりかえってみて、チームよりも個人重視だったと反省しました。

まあ、バルサも相当なタレントのチームですが。私の職場に、ロナウジーニョのような天才的で楽しそうに仕事をする人材がいれば、私も、もっと力が発揮できるのに・・・(←個人重視の考え方から抜け出せないでいる)。
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by sunaogoto | 2005-11-29 22:39

最近のおかず

試しに作ってみたおかずのこと。

その1
先日、実家で留守番していたとき、冷凍のロールキャベツを使って:

ロールキャベツの水なしトマト煮
1 トマト(2コ)の乱切りを中火のナベにかける
2 塩を少々ふって水が出てきたらロールキャベツ(4コ)を入れる
3 コーン(冷凍)を加える
4 塩で味を調整する
5 オリーブオイルをたらして食べる

バジルでも散らせば立派なイタリアン?

その2
自分の部屋に戻ったら、じゃがいもしかなかったので、それを使って:

ジャガイモの細木数子いため
1 じゃがいもを千切りにする
2 中火の油で軽くいためる(ナベ底にくっついたらこそげ落とす)
3 酒ひたひたを加えて、弱火で煮る
4 しょうゆ少々とウスターソース大1で味を調える

こそげ落としたじゃがいもが、煮るときにとろみになっていかにもおいしそう。

細木数子がテレビで、にんじんだけで作るおかずを紹介していたので、その応用です。
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by sunaogoto | 2005-11-28 21:14

時代の要請

母から何度も聞かされた昔話について。
「私の学校の先生は、何かあると、ストーブの薪やらスリッパやらで、おまえらー!パンパーン!と私たちを叩いたのよ。悪ガキたちがいてね、私は生徒会の副会長をやっていたから、生徒会の都合でバレーボール部の練習に遅れることがあって、遅刻してコートの外に座らされていると、やーいやーい、ってはやしたり、遠征試合の弁当にもってきたふかしイモを盗み食いしたりして、連中は先生によく叩かれていたのよ」。

これまでに、少なくとも10回は聞かされた話です。

この先生を囲む同窓会では、今でも卒業生の間で、痛い思い出が話題にのぼるそうです。今になってもそんな話をするとは、みんな先生のことを相当うらみに思っているのではないかと、私が茶化すと、そうではないと母は否定します。

現在では考えられないようなスパルタ教育ですが、いわゆる体罰が良いか悪いかという問題ではなく、時代の要請への適性の問題だと思います。時代が今よりも厳しく、子供たちも強くなければ生きていけなかったから、スパルタが自然に受け入れられていたのだと思います。

一方、厳しい時代だったから、弱者に対するいじめや差別も、露骨だったのだろうかと想像しました。ところが母によると、悪ガキたちを含めて、いじめや差別をする生徒はいなかったそうです。

いろいろな人がいたから、というのが母の説明でした。多様性が日常だったから、個人間の違いを攻撃するよりも、あたりまえのこととして受け入れていたということでしょうか。

現在は、人権や差別に関する教育が進んでいます。しかし、いじめや差別は、社会からも学校からも、一向になくならないように思います。現代に適した教育方法が見つかっていないのか、あるいは時代が差別を容認しているのでしょう。

もし後者だとしたら、母の時代とは違った意味で、今の子供たちは相当に厳しい時代を生きているのだと思います。
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by sunaogoto | 2005-11-15 23:57

さむ

作務と掃除について。
学生のとき、あるお寺で、堂内の掃除をしたことがあります。お坊さんは、掃除のことを作務(さむ)と呼び、掃除は汚れたところをきれいにする行為だが、作務はきれいなところを汚れないようにすることだと、掃除との違いを説明してくれました。

私は、家事の中では掃除が苦手です。ようやく掃除をするときは、部屋の中に綿ぼこりが目立っている頃で、床をふきながら、これは作務ではなくて掃除だなと、いつも思っていました。

気分転換に、最近、朝の出勤前に、部屋の掃除をしています。いつもより早起きして、あまり時間を気にせずにゆっくりと掃除するのです。二度寝の防止になるし、部屋はきれいになるし、良い気分です。

最近は仕事がひまなせいか、全体的に日常から勢いがそがれていました。職場では効率ばかりを追い求めているので、ひまが続くと、追いかける対象がなくなり、やる気までしぼんでいたのかもしれません。

しかし、朝の掃除を始めてから、元気が戻ってきたような気がします。職場の感覚では不必要なことを、効率を気にせずにやることが、役に立っているのだと思います。作務効果です。

すばらしい発見だと思い友人に伝えたところ、定年後のアクティブなおじさんの生活のようだ、と笑われてしまいました(特に、掃除の後に、体操をするところが)。
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by sunaogoto | 2005-11-09 23:14

老人サイボーグ

駅の階段で見かけたこと。
今日、客先から職場に戻る途中で、地下鉄への階段を降りようとする、高齢の男性を見かけました。足が弱いらしく、階段の手すりにしがみつきながら、一段を下るのがようやくです。一緒に歩いていた私の親切な先輩が、これを見かねて、手を貸すと申し出ましたが、男性は礼を言いながらも固辞しました。

日本はまもなく、本格的な高齢化社会を迎えます。今日、見かけたような老人の姿は、これからきっと、あたりまえの光景になるのでしょう。

高齢者の数が増えたら、社会は高齢者のリズムに近づいていくのでしょうか。人々は、雑踏をゆっくりと押し合わずに歩き、遠回りですがゆるやかなスロープが階段にとって代わり、通勤電車の各駅停車時間は長くなるのでしょうか。もしそうならなければ、高齢者はどうやって町を歩くのでしょうか。

先日、NHKのドキュメンタリー番組で、現代サイボーグ事情が取り扱われていました。首から下がまひした人でも、脳の信号を受信する装置を通じて、パソコンを操作したり、ネズミやサルの脳の特定部分を刺激することで、彼らを思うままに遠隔操作できたりするそうです。いわば、バイオテクノロジーとITの融合です。研究者の間では、だいぶ前から議論されてきたと、聞いたことがあります。

番組では、「パソコンは世界につながっている。だからパソコンにアクセスできれば、体が動かなくても、実質的に世界にアクセスできる」と、専門化がコメントしていました。

体の自由が利かなくなった高齢者は、物理的に町を出歩くのではなく、サイボーグとなって、ネットワーク社会を思うがままに飛び回るのです。映画「マトリックス」の続編を20年後に作ったら、きっとそんな感じでしょう。

老人のサイボーグ化の前に、目の前の高齢者に手を貸すよう、現役世代の脳を操作するべきかもしれません。先輩が手助けを申し出なければ、私は階段の男性を、横目で見ながら通り過ぎていたでしょう。そして先輩は、自分の手は貸さず、老人を助けるようにと私に指示するだけでしたから。
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by sunaogoto | 2005-11-07 22:51

祈り

神社の前で思ったこと。
近所の小さな神社の前を通りかかったとき、同じ方向に歩いていた中年女性がたちどまり、社に向かって一礼しました。真の信仰心とは、何気ない日常の動作の中に表れるものかと感心しましたが、その女性は10メートルほど先のパチンコ店に入っていきました。彼女の祈りは、パチンコ必勝のためだったのかと想像して、興ざめしました。

私個人は、無宗教に近く、初もうでさえしたことがほとんどありません。そのくせ、信仰心や祈りは、俗世の欲や得から離れた、たとえば世界平和を願ったり、絶望からの救いを求めたりするような、「純粋」なものであるべきだと勝手に思っていて、女性のパチンコ店に入る前の祈りに、裏切られたような気がしたのでしょう。

興ざめすると同時に、数年前に上海で見た光景を思い出しました。

上海市街の、ヒスイの仏像で有名なお寺を訪ねたときのことです。そのお寺は、観光地である以上に、地元の人たちの祈りの場でした。雨がざあざあ降る中、傘をさした長い列が、お寺の外で入場の順番を待っていました。中に入ると、金ぴかの仏様の周りで、長い中国式の線香の束を額の前にくりかえし捧げたり、ひざまづいて床に額をこすりつけたり、目を閉じたまま仏像の足をさすったりして、大勢の人々が熱心に祈っていました。

お寺の入場料を払える参拝客は、比較的、裕福な人たちです。少なくとも、お寺の回りにたむろして、参拝客相手に物乞いする人たちよりは、お金もちです。恵まれた人たちが、何を一心不乱に祈っていたのでしょうか。

案外、パチンコで大当たりしますように、というのと、同じ次元のお祈りだったのかもしれません。何しろ、わずかな滞在の間に、私をだまし、ぼったくり、チェックインした帰りの飛行機を、私を乗せずに出してしまうような人たちですから(高級上海ガニをごちそうしてくれたのも上海人でしたが)。

パチンコ必勝の願かけや、上海の実は俗っぽい参拝は、偏見に満ちた私の思い込みです。でも、そういう祈りもよいと思えてきました。私のお高くとまった祈りの理想像をこわしてくれる、低俗で自分勝手な祈りが、世界中で毎日のようにくりかえされていると妄想すると、なんとなくゆかいな気分なのです。

次に私が低俗な願望をもったときは、深く真剣に祈ろうと思います。
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by sunaogoto | 2005-11-03 01:50