老人サイボーグ

駅の階段で見かけたこと。
今日、客先から職場に戻る途中で、地下鉄への階段を降りようとする、高齢の男性を見かけました。足が弱いらしく、階段の手すりにしがみつきながら、一段を下るのがようやくです。一緒に歩いていた私の親切な先輩が、これを見かねて、手を貸すと申し出ましたが、男性は礼を言いながらも固辞しました。

日本はまもなく、本格的な高齢化社会を迎えます。今日、見かけたような老人の姿は、これからきっと、あたりまえの光景になるのでしょう。

高齢者の数が増えたら、社会は高齢者のリズムに近づいていくのでしょうか。人々は、雑踏をゆっくりと押し合わずに歩き、遠回りですがゆるやかなスロープが階段にとって代わり、通勤電車の各駅停車時間は長くなるのでしょうか。もしそうならなければ、高齢者はどうやって町を歩くのでしょうか。

先日、NHKのドキュメンタリー番組で、現代サイボーグ事情が取り扱われていました。首から下がまひした人でも、脳の信号を受信する装置を通じて、パソコンを操作したり、ネズミやサルの脳の特定部分を刺激することで、彼らを思うままに遠隔操作できたりするそうです。いわば、バイオテクノロジーとITの融合です。研究者の間では、だいぶ前から議論されてきたと、聞いたことがあります。

番組では、「パソコンは世界につながっている。だからパソコンにアクセスできれば、体が動かなくても、実質的に世界にアクセスできる」と、専門化がコメントしていました。

体の自由が利かなくなった高齢者は、物理的に町を出歩くのではなく、サイボーグとなって、ネットワーク社会を思うがままに飛び回るのです。映画「マトリックス」の続編を20年後に作ったら、きっとそんな感じでしょう。

老人のサイボーグ化の前に、目の前の高齢者に手を貸すよう、現役世代の脳を操作するべきかもしれません。先輩が手助けを申し出なければ、私は階段の男性を、横目で見ながら通り過ぎていたでしょう。そして先輩は、自分の手は貸さず、老人を助けるようにと私に指示するだけでしたから。
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# by sunaogoto | 2005-11-07 22:51

祈り

神社の前で思ったこと。
近所の小さな神社の前を通りかかったとき、同じ方向に歩いていた中年女性がたちどまり、社に向かって一礼しました。真の信仰心とは、何気ない日常の動作の中に表れるものかと感心しましたが、その女性は10メートルほど先のパチンコ店に入っていきました。彼女の祈りは、パチンコ必勝のためだったのかと想像して、興ざめしました。

私個人は、無宗教に近く、初もうでさえしたことがほとんどありません。そのくせ、信仰心や祈りは、俗世の欲や得から離れた、たとえば世界平和を願ったり、絶望からの救いを求めたりするような、「純粋」なものであるべきだと勝手に思っていて、女性のパチンコ店に入る前の祈りに、裏切られたような気がしたのでしょう。

興ざめすると同時に、数年前に上海で見た光景を思い出しました。

上海市街の、ヒスイの仏像で有名なお寺を訪ねたときのことです。そのお寺は、観光地である以上に、地元の人たちの祈りの場でした。雨がざあざあ降る中、傘をさした長い列が、お寺の外で入場の順番を待っていました。中に入ると、金ぴかの仏様の周りで、長い中国式の線香の束を額の前にくりかえし捧げたり、ひざまづいて床に額をこすりつけたり、目を閉じたまま仏像の足をさすったりして、大勢の人々が熱心に祈っていました。

お寺の入場料を払える参拝客は、比較的、裕福な人たちです。少なくとも、お寺の回りにたむろして、参拝客相手に物乞いする人たちよりは、お金もちです。恵まれた人たちが、何を一心不乱に祈っていたのでしょうか。

案外、パチンコで大当たりしますように、というのと、同じ次元のお祈りだったのかもしれません。何しろ、わずかな滞在の間に、私をだまし、ぼったくり、チェックインした帰りの飛行機を、私を乗せずに出してしまうような人たちですから(高級上海ガニをごちそうしてくれたのも上海人でしたが)。

パチンコ必勝の願かけや、上海の実は俗っぽい参拝は、偏見に満ちた私の思い込みです。でも、そういう祈りもよいと思えてきました。私のお高くとまった祈りの理想像をこわしてくれる、低俗で自分勝手な祈りが、世界中で毎日のようにくりかえされていると妄想すると、なんとなくゆかいな気分なのです。

次に私が低俗な願望をもったときは、深く真剣に祈ろうと思います。
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# by sunaogoto | 2005-11-03 01:50

ハロウィーン

ハロウィーンについて調べたこと。
10月31日はハロウィーンです。アメリカでは子供がお化けなどに仮装し、夜に家々を歩き回って、おかしをもらいます。

ハロウィーンの由来を調べてみました。もともとは、古代ケルト人の大晦日とお盆を兼ねたような風習で、魔よけのために仮装したり、焚き火をしたりしたそうです。今でもアイルランドでは、ハロウィーンを祝日として祝っているそうです。

このケルト人の風習が、4世紀頃の古代シリアでキリスト教徒に伝播して、すべての聖人や殉教者を記念する万聖節(=All Hallows、11月1日)の前日(=Hallow Eve→なまってHalloween)のお祭りとなったそうです。パンプキンを飾る風習は、アイルランドで使われているかぶに比べ、くりぬきやすいという理由で、アメリカに渡った移民が広めたそうです。(以上「ウィキペディア フリー百科事典」より)

ケルト人からカトリック万聖節へのつながりについての、詳しい説明は見つかりませんでした。暦の上の近さはあっても、今日の万聖節とハロウィーンの間に、類似する内容はないように思えます。

ケルト人は中央アジアから出て、中部ヨーロッパで栄え、ゲルマンやローマに押されて消滅しましたが、なぜかいつか、現アイルランドに末裔を残した民族です。今日のアメリカのハロウィーンは、カトリック万聖節を経てというよりは、アイルランドになぜか発生したケルト的文化が、19世紀の移民によって新大陸に伝えられた風習と考えるのが自然だと思います。

アイルランドに根付き、アメリカで生まれ変わったハロウィーンは、海を越えて日本に、表面的ですが定着しつつあります。日本で受け入れられたのは、宗教色の薄い、大衆的なお祭りだからだと思います。

外国の風習を受け入れられる点は、さすが日本人と関心します。主流なものではクリスマスやバレンタインデー、新しいものではハロウィーンや感謝祭。アメリカ以外の国の影響が少なくて、ちょっと物足りない気がしますが、歴史や宗教などの深い意味を考えずとも、お祭り気分で気軽に体験できるところが、新大陸文化の良いところなのだと、私は妥協しています。
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# by sunaogoto | 2005-10-31 23:20

To Be Good

ハッとさせられた一言。
外国人のエコノミストと仕事の話をしていたときに、"You can't be good by luck"といわれました。仕事で一流になるためには、運や成り行きにまかせていたのではいけない、自分はこうするのだという強い意思をもって行動しなければならない、という趣旨でした。

私に言われたわけではありませんが、耳の痛い言葉です。10年間サラリーマンをやってきたのに、目指すべき自分像はまったく見えず、目の前の仕事にひたすら追われるか、あるいは追われる仕事さえなく、呆然と時間を見送る毎日・・・。

あるいは、目指す自分像などというものは、10年ばかりの経験では、とても見えてこないものなのでしょうか。あるいは、何年かけようが、どのみち私の手には届かないものなのでしょうか。

しかし、仕事に限らず、生活全般において、私は偶然を楽しんできました。計画の外にあるひらめきや成り行きを、楽しもうと心がけ、ときには活用してきました。

経済学には、ナッシュの均衡という、経済の調和のとれた状態を示す概念があります。この概念の発見者である、ジョン・ナッシュを描いた映画、「ビューティフル・マインド」によると、もっとも多くの人々を幸せにする状態は、みんながナンバーワンではなく、ナンバーツーを目指すことによって達成される、とナッシュは考えたそうです。

成り行きを楽しんでいるようでは、一流にはなれないかもしれません。しかし、成り行きを楽しむことは、ナッシュによれば、一流を目指す生き方よりも、世界の調和に貢献できる生き方なのです。ノーベル経済学賞をとったナッシュのいうことは正しいのです。

きっとひまだから、ぶつぶつ考えてしまうのでしょうね。なお、ナッシュはすぐれた学者である一方、幻覚に悩まされる精神病患者でもあったそうです。
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# by sunaogoto | 2005-10-27 23:51

温泉が復活するために

温泉に行って思ったこと。
週末に、富山県の黒薙温泉に行ってきました。黒部ダムの下流にある宇奈月温泉郷から、トロッコ電車で黒部峡谷をのぼったところにある、山あいの温泉です。日帰りの観光客でトロッコ電車はにぎわいますが、黒薙で途中下車したり宿泊したりする人は少ないため、交通の便はよいわりに、静かでのんびりできる穴場です。

温泉は、のんびりできるし、体には良いし、自然も楽しめるので、良いことづくめです。火山国日本には、いたるところに温泉がありますから、旅先のちょっとしたついでに立ち寄れるのも便利です。温泉がなければ、日本の観光業の姿は、相当違ったものになっていたはずです。

ところが、温泉は不振続き。NHKのニュースによると、箱根のような一級の観光地でも、温泉のにぎわいはいまいちのようです。全国では、温泉の数は増えているのに、利用者の数は減っています。

全国温泉地の利用者数と温泉地数の推移(国土交通省)
       利用者数(千人) 温泉地数
2001年 137,098      3,023
1998年 143,164      2,565

温泉の水増しの発覚や、自然災害の影響など、一時的な理由の他に、温泉は遠い、海外旅行に比べて割高で新鮮味がない、若者の好みに合わないなど、構造的な理由も、温泉の不振に大きく影響しているように思えます。

参考:ディスニーリゾートの利用者数推移(国土交通省)
       利用者数(千人) 
2001年 20,460
1998年 17,160

でも、温泉をディズニーランドのようにしても、利用者は増えないと思います。

箱根は平安時代に、関東と京都を行き来する旅人が開拓したそうです。富山の宇奈月や黒薙温泉は、黒部ダムの難工事が続く間に拓かれたそうです。温泉は山の中にあることが多く、そのため、山を往来する人が多ければ、自然に温泉の利用者は増えたのでしょう。

温泉の人気がなくなったのは、山に通う人の数が減ったからだと思います。交通手段が発達して山を通る必要は減り、山岳地の人口は減り、山に向かうのは登山者くらいなのかもしれません。

温泉が復活するためには、温泉自体を変えるよりも、温泉の近くにディズニーランドのような行楽地をつくることかもしれません。
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# by sunaogoto | 2005-10-26 23:51

本当に見えているもの

サクラの効果について知ったこと。
心理学の実験で、ある簡単な問題に対して、何人かのサクラにわざと間違った答えをいわせると、サクラ以外の被験者の何割かは、サクラと同じように間違った答えを選んでしまうそうです。

「馬鹿」という言葉は、始皇帝の死後、権力をにぎった宦官が、皇帝の前で家臣たちに鹿を見せ、これは馬だといわせたことが語源のひとつといわれているそうです。この宦官に逆らうことがよっぽどこわく、みんな鹿だとわかっていても、馬だといわざるをえなかったという逸話です。

ところが、最近の研究結果によると、鹿だと思いながら馬といったのではなく、本当に家臣たちには、鹿が馬に見えていた可能性があるそうです。

アメリカのエモリー大学は、サクラをまじえた実験をしながら、被験者の脳の動きを調べたそうです。その結果、サクラにつられて間違った答えを選んだ人たちの脳は、感情ではなく、視覚をつかさどる部分が活発に動いていたそうです。つまり、雰囲気に流されてわざと間違えたのではなく、本当に間違った答えが正しく見えていたというのです。(ニューヨークタイムズ6/28/2005)

周りに左右されずに、自分の見方や考えを保つということは、想像以上にたいへんなことのようです。

小学校の国語の教科書に、「最後の授業」という話がありました。世界大戦のとき、ドイツに占領されつつあるフランス郊外の小学校で、最後のフランス語による授業が行われるお話です。先生は、授業の終わりに、明日からは母国語をうばわれ、ドイツ語で授業をしなければなりません、しかし私たちの心の中までは誰にも奪えないのです、と演説するのです。

なぜか印象に残っている話でした。しかし先生、私たちの心の中は、サクラが何人かいれば、どうやら簡単にいじられてしまうようです。がっかりです。
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# by sunaogoto | 2005-10-20 22:34

立て看板

町を歩いていて思うこと。
お店の多い町では、歩道にたくさんの看板があります。壁にとりつけられた看板、壁に立てかけられた看板、のぼり旗、移動式の広告版など、種類が豊富です。

歩道を歩くときに、しばしば看板に進路をふさがれます。歩道がせまいときや、通勤時など通行人が多いときや、雨が降っていて傘をさしているときは、歩道上の看板が、ひどくじゃまに思えます。自分が先を急いでいるときは、歩行者のさまたげになる看板をなぜ歩道に置いたりするのかと、いらいらいすることもあります。

しかし、看板は、歩行者をさまたげてこそ存在意義があるのかもしれません。

大阪万博の主催者は、入場口から大勢のお客が人気の展示場へ殺到するため、事故につながると心配したそうです。お客の気分を害さずに、しかも大きな労力をかけずに、どうしたらお客の駆け足をおさえられるか。

考えた末、入場客の進む方向に対して横方向に、警備員に間隔をあけて複数の列をつくらせました。ちょうど、公園の自転車どめのように、警備員を配置したのです。入場客は、警備員の間を縫うように進まなければならないため、走って転ぶ人はほとんどいなかったそうです。(NHKの「プロジェクトX」で紹介されていたと思います)

私のしゃくにさわる歩道の看板は、私に歩道をまっすぐ歩かせてくれません。まっすぐに歩けないので、私は急ごうとしても早く歩けません。看板たちは、そうやって私の歩みをにぶらせ、私の注意をひき、店へと誘い込もうとしていたのです。

そうか、わざわざじゃまになるように置いてあるのかと気づいたら、ますますしゃくにさわります。うさばらしにときどき、看板にチョップ&キックします。居酒屋「チムニー」の、高さ3メートルほどある円柱型広告物は、空気でふくらませているので、ぶつかっても痛くないのです。

きっと私が大阪万博に行っていたら、転んでけがをして、警備員に怒られたことでしょう。
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# by sunaogoto | 2005-10-17 23:11

自分の年金をさがしてⅡ

年金の運用について引き続き調べたこと。

アメリカの年金は、どのようにして日本の年金よりずっと高い利回り(米10.6%、日2.3%、過去10年間の各平均)を得てきたのでしょうか。

両者の投資対象を比較してみました。

日米公的年金の投資対象
        日本(i)  アメリカ(ii)
国内債券  52%    23%
外国債券  12%     3%
国内株式  21%    40%
外国株式  15%    20%
不動産     0%    7%
代替投資    0%    5%

(i)国民年金・厚生年金の市場運用部分、平成17年度移行ポートフォリオ
(ii)カリフォルニア州職員退職年金(カルパーズ、2004年6月末現在


日米の違いは大きく次の2点に整理できます。

1.アメリカは株式の比率が高い
  アメリカ 60%
  日本   36%

リスクはありますが、期待利回りの高い株式に多く投資することで、アメリカはより高い利回りを達成してきたようです。日本は株式の比率が低く、残りはほとんど金利のつかない国内債券だったため、合計利回りが振るわなかったのでしょう。その上、日本は、投資した株式の多くが「失われた10年間」に低迷してきた日本株式でした。

2.アメリカは不動産や代替投資に分散投資している
  アメリカ 12%
  日本    0%

不動産や代替投資(ヘッジファンド)は、株式の不調を補う投資対象として期待されています。アメリカは株式にたくさん投資するだけではなく、株式投資がうまくいかないときに備えて、株式とは異なる動きをする、不動産やヘッジファンドに、比較的小額の投資をしてきたようです。


なお、厚生労働省年金局に問い合わせたところ、上記の日本の投資比率は、年金運用の一部にすぎないそうです。旧大蔵省資金運用部に委託していた大量の資金があるらしく、それを含めた公的年金全体の姿は、次のとおりです。

日本の公的年金の全体像(iii)
国内債券 75%
国内株式  8%
外国債券  5%
外国株式  6%

(iii)平成17年度移行ポートフォリオ


公的年金全体の運用成績は、平成15年度が4.90%、14年度が0.17%、13年度が1.94%。それ以前の数値は、整理されていないそうです(文句を言っておきました)が、ほとんどが低利の国内債券なので、わかっている数字と大差ないと思います。

(つづく)
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# by sunaogoto | 2005-10-15 05:12

アメリカの外国人事情

アメリカの友人について思ったこと。
私がアメリカの大学院に留学していたとき、1年間、トルコ人の留学生と共同生活していました。彼は卒業後、アメリカの銀行に就職し、ニューヨークで働いていました。およそ5年後、彼はレイオフされました。

当初、彼の失業を、私はささいなことだと思っていました。修士の学歴と、大手銀行での5年近い経験があれば、次の仕事はじきに見つかる、見つからなくても、トルコに戻ってそれなりの仕事につけるだろうと考えていたのです。

しかし、次の仕事はなかなか見つかりません。アメリカの金融業界で、外国人が再就職するのは、よほどの実績や知名度がないと難しいそうです。アメリカで外国人が失業すると、労働ビザを失い、いずれ強制出国させられますから、友人は次の仕事探しに必死です。

トルコに戻って仕事をしながら、またアメリカに来る機会を待てばどうでしょうか。しかし自国には、彼がニューヨークでしていたような仕事は皆無で、アメリカ再入国につながる線は見込み薄なのだそうです。

そもそも、アメリカにそれほどまでして滞在したいものなのでしょうか。友人がいうには、アメリカほど高給の仕事に恵まれた国はない、トルコとはぜんぜん違います。

友人の知り合いのイタリア人は、3つの大学の修士と博士号をひっさげて、アメリカで就職しましたが、やはりレイオフされました。彼はイタリアに戻りたくないため、急いでアメリカ人女性と結婚して永住権を得ました。結婚生活は不幸だそうですが、それでもアメリカにいたいようです。

一方、同じ大学院を出て、日本で就職した私に、さほどの緊迫感はありません。失業の可能性はあっても、強制出国させられるリスクはなく、自国には、再就職の機会が多くあります。若きニートが80万人いる日本は、アメリカに比べればぬるま湯です。

強制送還をさけるために、友人は現在、タイマッサージをしながら収入を得ています。厳しい環境で鍛えられた彼は、いずれきっとアメリカで再就職すると思います。世界中のタレントを引き付ける求心力が、アメリカの底力のひとつであり、集まったタレントを競わせ、活かす文化が、引き続きアメリカの優位性を支えていくと思います。
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# by sunaogoto | 2005-10-13 23:43

奇跡づくり

テレビを観て思ったこと。
先日、テレビ東京の「美の巨人」という番組で、木村伊兵衛という写真家の作品が紹介されていました。この写真家は、日常の何気ない風景をとらえる名人で、被写体の人物に、写真に撮られるという意識をもたせずにシャッターを切れたそうです。

番組が特にとりあげた作品は、東京の五叉路を歩く、12人の写真です。12人の視線が、ひとつとしてお互いに交わっていない点が、「日常的」なのだそうです。

混み合った通勤電車の中でも、人々の視線は交差しません。これだけたくさんの人がせまい空間の中にいるのに、不自然なことだと私は思っていましたが、むしろ視線が合わないことが自然なようです。木村名人の作品が撮られた1953年当時から、この自然さは不変なのです。

その一方でテレビは、高視聴率をめざして、なるべく多くの視線を1ヶ所に集めようと必死です。出演者がオピニオンリーダーのように振る舞う一部の番組では、視聴者の視線を集めるだけではなく、その意見や考え方まで、ひとつにまとめようとしているように思えます。

漫画「マスターキートン」の一話に、奇跡を信じる牧師の、「人間はおたがいに何を考えているか本当にはわからない。複数の人間がまったく同じことを感じるためには、奇跡を見るしかない」というせりふがあります。

現代のテレビ番組の一部は、相も変わらず視線の交差しない日常の中で、人々の目も心もひとつにまとめようとする、奇跡づくりの試みなのだと思います。

なお、木村伊兵衛の撮った五叉路に、私は行ったことがあります。五叉路の奥に、おいしい十割そばを出すそば屋があるのです。
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# by sunaogoto | 2005-10-11 22:41